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伊東静雄ノート②-冷たい場所で

伊東静雄ノート②-冷たい場所で_f0376775_06574702.jpg しかし伊東の〈行き詰まったところからやっとしぼり出すような詩〉が、「春のいそぎ」の挫折へ、その〈痛き夢〉は後退を強いられていくわけだが、戦争詩という状況下での飢にささくれながら、自らを鼓舞するように、けして手ばなさず書き続けた詩への愛着が次のような文面からも読みとれる。文学としては不毛であった日本浪漫派の詩人の中にあって誰よりも純粋にその思想を受け継いだと私にはおもえるし、それゆえにいっそうの無念さを感じとることもできるのである。


「発想は暑く烈しく無ければなりませんが表現においては沈着暢達でなければいけないと思います。〈略〉私自身『わがひとに与ふる哀歌』から『春のいそぎ』 へたどった道を思い浮べ個性の宿命といふのを不思議なものに思っております。「読書新聞」というのに『春のいそぎ』を評して「作者の温厚篤実な人柄のままにうたはれた云々」とありましたが、哀歌の当時誰が渡しを温厚篤実だなどと評しましたらう。〈略〉」



これは戦争も敗色の濃い真木昭和十九年に、伊東を私淑している一女性に当てた詩集のお礼と思われる手紙の一部分である。ここでかれは発想を語り、その詩業をかえりみている。詩的出発は伊東のことば通りであろう。たしかに熱く烈しかったが、晩年にちかづくにつれてれて沈着暢達へと深く沈んだ表現をとった。というよりも、たぶんとらざるを得なくなってしまっている自らへの不満やるかたのなさがつたわってくるのだろう。そして、そこに〈個性の宿命のようなもの〉を伊東はいたく察知していたことがわかる。それはまた、日本の近代詩以後の抒情の宿命というようなものに一直線に貫かれた痛みであったといっていいようにおもえるのだ。この読み方に多少不安があるのは、日本浪漫派といわれた詩人の詩や伊東の詩を絶賛した萩原朔太郎の詩の影響についてはどの程度なのかもあまりかえりみることがなかったという不安のせいなのかもしれない。川村二郎はあるところで、なぜ伊東静雄に惹かれたかと云えば認識を追求する詩人という印象が、認識を追い求めるというその姿勢によってだと語っていたのを読んだ記憶がある。伊東静雄ほど鋭い形では現れているものがほかに見当たらなかったということらしかった。いづれにしろ『哀歌では』〈意識の暗黒部との必死な戦い〉によって、かれの〈個性〉が現実と激しく切り結ぶところに拠ってあったが、『春のいそぎ』の〈平明な思案〉は現実とほぼ重なり合ってしまうのである。


〈あゝわれら自ら孤寂なる発光体なり!〉の純白の世界へはもはや帰れないのでありあまりにもみじかい期間をはげしく燃焼しつくしたその一瞬の光芒のような〈個性〉のうちに、抒情詩の成立する根拠を問うことができるかもしれない。いま、伊東の熱く烈しく燃焼させた表現主体の根拠とはどこに求められたのか、伊東の思想を決定づけた日本浪漫派との出会いとはべつに問わなければならない問題であろう。



私が愛し
そのために私につらいひとに
太陽が幸福にする
未知の野の彼方を信ぜしめよ
そして
真白い花を私の憩いに咲かしめよ 
昔のひとの堪え難く
望郷の歌であゆみすぎた
荒々しい冷たいこの岩石の
場所にこそ (「冷たい場所で」全行)



みぎの「冷たい場所で」は、「わがひとに与ふる哀歌」のすぐ後に書かれた作品である。「曠野の歌」までは、すこし距離があり、詩臭『哀歌』の中では、かなり異質な作品であるといえる。


太陽は美しく輝き
あるひは太陽の美しく輝くことを希ひ
手をかたくくみあはせ
しづかに私たちは歩いて行った      (「わがひとに与ふる哀歌」部分)

「わがひとに与ふる哀歌」の相愛の仮構の作品とくらべるまでもなく「冷たい場所では一転して愛するもののための自己犠牲を、それは片恋の真実を提示するかのように歌っているここでは愛の苦行のように冷たい岩石の場所に自らを対置し、あたかも愛する人に罪を犯したと感じるときの自己懲罰という苦行者の振る舞いのようにも見えるが、わたしにはこの冷たい岩石の場所の発見こそ、伊東の詩の成立する〈生〉の場所であり、そこに自らをつなぎ止めることによって見果てぬ愛の粛清を果たそうとしたものと思える。だから苦痛における結合の表現というよりも祈りに近い肉声を聴く思いがする。この冷たい場所の発見が伊東の詩の根拠だと言い切るには今少しの手順が必要であろうか。この場所にもう少しこだわってみたいとう。 (未)


  by tanaisa | 2016-10-04 06:58 | (詩をめぐる批評関係)

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