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井上靖詩論のためのメモ5


井上靖詩論のためのメモ5_f0376775_10162557.jpg(6)  そこで伊藤は「詩もまた、その叙事的な要素をとっくに小説に譲り渡してしまったし、
その抒情性の多くを歌謡に譲り渡した。いま詩は何をもっているのか?感覚と思想とをリズムの中にとらえることのみを、その領域としている。」つまり普遍的、本質的なものを譲り渡してしまった詩に未来はあるかといった、痛烈な問いであったと思う。

当時の詩のわからなさについての評論はいろいろあったようだが、結果的にいってし
まえば、戦後は詩を書くうえでの態度が大きく変わったからであると、大岡信は、いう。
 
その態度というのは、「もう誰も言葉だけではろくすっぽ信じもしない世のなか」(黒田三郎)になってしまったという事実をなによりも物書き自身が痛切に自覚するようになったということで、「分からない詩」の存在が大きくなっていったという。それは当然のように戦後という時代の要請でもあったわけだが、その後「全体性の回復」が戦後詩の合い言葉のように求められたという時代的背景を見落すわけにはいかないだろう。                             

 井上靖の『北國』のあとがきには、そのことを充分感じていたと思う。「現在、沢山の同人雑誌が出版され、多勢の若い詩人たちが詩を書いている。こうした詩に対して、一般に語られるのを聞くと、必ず判らないということが決まり文句のように云われる。実際に判らないだろうと思うし、判らなくて当然だと思う。」「既に何冊かの高名な詩集を持っている詩人の仕事にしても、いい作品というものは極めて少ないのではないか。一生のうちに何編かの立派な詩が書けたら、その人は立派な詩人であるに違いない。」と述べている。今、こんなことを言うと、やや俗っぽく聞こえてしまうのだけれど…。すべての人に理解されない詩というものの特殊な本質にふれながら、さらに苦い断念をふまえて作品化していることを述べた当時の率直な思いの箇所にたちどまった。

 その後の主要作品名や受賞など掲げると、「添胡樽」(昭和二十五年)・「淀どの日記」(昭和三十年)・『天平の甍』(昭和三十三年)により芸術選奨文部大臣賞。『氷壁』(昭和三十四年)その他により毎日芸術大賞。『淀どの日記』により野間文学賞。又、昭和三十九年(一九六四)五十七才で日本芸術委員会員となり『風濤』により読売文学賞。『おりしや国酔夢譚』(昭和四十四により日本文学大賞。

 昭和五十一年(一九七六)十一月、井上靖は、文化勲章を受賞する。六十九才であった。その後、同五十六年には日本ペンクラブ会長、日本近代文学閑名誉会長に就任する。
また、平成元年(一九八九)には『孔子』により再び野間文芸賞を受賞する。本当はこの裏側に、どんな詩的人生が潜んでいるのだろうと思いながら雑誌からの年表などを書き写していた。(立派な作家としての履歴、万一間違って書き写していたら、お詫びいたします)(未)


  # by tanaisa | 2016-11-24 09:54 | (詩をめぐる批評関係)

井上靖詩論のためのメモ4

(5)
 井上靖は、明治四十年(一九〇八)五月六日、北海道旭川町第二区三条遠十六の二、旭川第七師団官舎でうまれた。軍医の父隼雄と母八重(戸籍上はやゑ)の長男。井上家は伊豆湯ヶ島で代々医を業とした家柄であった。この年父が朝鮮半島に従軍したので、翌四十一年には母と伊豆に帰り、同四十二年より父の転任にともない東京、静岡、豊橋と移り住んだ。
 大正三年(一九一四)湯ヶ島尋常小学校に入学。同九年、浜松師範付属高等小学校高等科に入学。同年、静岡県立浜松第一中学校に主席で入学(十四才)。この年静岡県下の中学校の優等生を集めた選抜試験で一等賞を取る。大正十一年(一九二二)父の転任のため、静岡県立沼津中学校に転校。大正十三年(一九二四)成績が下がったため、四年生の四月より沼津市妙覚寺に預けられる(十七才)このころより文学好きの友だちと交わり、飲酒喫煙をおぼえ文学への眼も開かれる。国語の時間に芥川龍之介、谷崎潤一郎の短編を読まされ感銘を受ける。
 
大正十四年(一九二五)三月、山形高等学校を受験したが、途中で受験を放棄。四月、五年生になると共に学校の寄宿舎にはいる(十八才)大正十五年・昭和元年(一九二六)三月、静岡県立沼津中学校を卒業。静岡高等学校を受験したが、これも途中で受験を放棄。父の金沢への転任とともに金沢に移り、受験の準備に過ごす。

昭和二年(一九二七)四月、金沢第四高等学校理科甲類に入学。入学と同時に柔道部に入り選手生活で練習に明け暮れる。昭和四年は、先に述べた「日本海詩人」に詩を投稿しはじめる。

昭和五年(一九三〇)四月、靖は九州帝国大学英文科に入学したが、文学に傾斜して上京。懸賞小説の投稿に熱中する。同七年四月、京都帝国大学哲学科に入学する。同十一年に卒業し同年七月には時代小説「流転」で、第一回千葉亀雄賞を受賞する。翌八月には大赤毎日新聞社編集局に就職するが、翌十二年八月には応召され、中国北部に渡る。だが、脚気をわずらい、翌十三年に日本に送還、召集解除となり、新聞社に復帰した。
 
その後、靖は安西冬衛・竹中郁・小野十三郎・伊東静雄ら関西の詩人たちと交わる。同二十年八月には、終戦記事「玉音ラジオに拝して」を執筆する。

現在ではよく知られている長い履歴になったが、昭和二十五年(一九五〇)二月靖は「闘牛」により第二十二回芥川賞を受賞した。四十三才であった。
二十年に近い屈折の後、いよいよ創作に専念することとなる。この年の十二月には詩誌『日本未来派』三十七号に「井上靖詩抄」として、十数年に渡って書いた詩のうち三十四編を選んで掲載される。その後も作家として小説を書きながらも決して詩を手放さなかった、手放すことができなかった。詩人よりも詩を愛した小説家。小説よりも詩が好きな小説家。そんな印象が消えることのない高名な作家ではなかったかとおもう。(未)  



  # by tanaisa | 2016-11-23 10:10 | (詩をめぐる批評関係)

井上靖詩論のためのメモ(3)



井上靖詩論のためのメモ(3)_f0376775_08312238.jpg(3) 井上靖は大村正次との出会いによって『日本海詩人』に十三編の詩を発表している。このことはくりかえしになるが、東京の詩誌『焔』(主宰者・福田正夫)の同人になったのもこのころである。
 さらに、十一月には高岡の同人誌『北冠』(主宰者・宮崎健三)の創刊号にくわわる。この年しばしば『高岡新報』に井上の詩が掲載される。まさに。旺盛な詩作の時期のはじまりでもあった。
 いまあらためて、井上靖の『日本海詩人』での詩の発表をみてみると以下のようである。

・昭和四年二月、「冬の来る日」。四月、「二月」。五月、「孤独」「懐郷」「流れ」。六月、「蛾」。十一月、「稲の八月」。
 
冬の来る日  井上泰(*初期のペンネーム)


明日か、明後日か
やがて巡り来らんとしている
冬の最初の音ずれの日よ
冬の来る日よ。


桐の落葉一枚、瀬戸の井桁の上におかれ
懐手して縁に立つ私は
ひしひしと迫る晩秋の寂しさを
落葉をふんでゆく母の老の姿に感ずる。
十月の砂丘の五語は私の心から去った。
十月の紺碧の空に何の心残りがあらう
私は取り出した冬の鳥打の黒い色を
しみじみと懐しみながら
やがて来ようとしている冬を待っている。

   
冬の来る日よ
その日私は、去年の様に
白壁の塀の多い裏街を歩んでいるかもしれない。
角の昔風の大きな家には
あわただしく秋は逝こうとしていた。
大きな樫の枯葉は
私の個々の様な顔して
私の行く手に巡り落ちていた
灯の頃
持ち出した寂しさをそのまま持って
坂道を登ってきた
私の耳に
バサ バサ バサ
次の瞬間
すばらしい冬の使いは私の顔をも撲りつけた
霰だ。霰だ。
素朴な荒句、懐かしい冬の音ずれよ。
落葉を打ち、白壁の塀を打ち
北国の天地の全てにぶつかってくる
霰の乱舞の中に立って
私の手は飛び込んで来た霰を確り握りつぶし  
私の心は 秋の上に
幾度めかに巡り来た冬を
しっかりだきしめて立っていた。 
明日か 明後日か
やがて巡り来ようとしている
冬の来る日よ
その日私は 去年の様に
白壁の塀の裏街を歩んでいるかもしれない。  (「日本海詩人」昭和四年二月号)


やや長い詩を全文掲載したが、この詩が、活字になった最初の作品だろうと思う。発表は昭和四年二月号だが、翌年には柔道部員を、新入部員のための練習時間を短縮した責任をとって退部している。詩作を始めたのは、そのトラブルとの関係があるかも知れない。
また、同時期の詩誌『焔』では次の詩が掲載されている。・昭和四年五月、「初春の感傷」。六月、「まひるの湯で瞑黙せる老人」。六月「五月の風」。八月、「淫売婦」。九月、「聖鐘の音は聞こえない」「葬列」。十月、「狂詩」このあとは、十七編の詩を発表している。(二十六才の頃までは詩が中心であった)          

(4)
 第一期の井上靖の作品は、総括的に云えば父母弟妹と離れて、北国の街での下宿住まいと、柔道部というきびしい部漣生活に、疲れたように退部しており、精神的に弱っていたものと想像することはあたりまえすぎるかも知れない。人間本来の孤独ということをしっかり受け止めたのではないか。たぶんに自己凝視がこの時期の詩となっていることは、次に「蛾」の一編によっても推察できよう。
 
 蛾

今夜も亦
一つの詩が書けなくて苦しんでいる私よ。
二時を打った今、
詩の書けない悲しい飢餓の感情で、
じっと、蛾の羽捕きに耳を澄ます私の心よ。
老い給う父を知っている。
真昼の花の様に悲しい
母の私に対する美しい夢を知っている。
石碑の立たない祖母の墓地を知っている。
正しい思想の流れを知っている。
ドス黒い民衆のうごめきを知っている。
栄養不足の長屋の子供を知っている。
それだのに、私は斯くも苦しんで、
詩人になりたくもないのに詩を書く。
母の待つ夢になんの光りも与えないのに詩を書く。
民衆に何の影響もないのに詩を書く。
貧民の鼻紙にもならないのに詩を書く。
(「日本海詩人」昭和四年八月号・「第一連」以下略)(未)


  # by tanaisa | 2016-11-22 09:40

井上靖詩論のためのメモ(2)

(2)
 井上靖は『わが文学の軌跡』の中で「日本海詩人という雑誌が石動でだされていました。主宰者は大村正次さんでした。日本海詩人には、昭和四年から五年にかけて約十編の詩を発表しました。その同人の独りに宮崎健三さんがおりまして、高岡で“北冠”という雑誌を創刊することになり、私もそれに寄稿しました。」と詩との出会いにふれながら往時を懐かしくしのんでいる。
 ここで『全詩集』(新潮社版)の《拾遺詩編》の中に収められている「少女」は巻末の発表誌紙一欄〟の中では「北冠」と書かれているが、これはあきらかな間違いである。
ここに「少女」の「日本海詩人」に掲載された時のものを載せておこう。


ーーねっ、止めてよ、私おりるわ。

キャベツのいっぱい載っている荷馬車のなかに
少女が俯いて坐っている。
 
リンゴの花粉がこぼれそうなおやかな頬である。
大きいふくろをだいて、明るい大胆なはにかみである。
ーーばかめが、なあに、かもう事がるもんかい。」

 
御者台でおやじは朴訥そうな顔をゆがめている
少女の心に伸びている繊細な触覚。
少女の胸に流れている青磁色の気流。
それをこの愛すべき年老いた
父親はかんじていないのだ。
あゝこんな新鮮な親子のいさかいがころげていよとは! (「少女」部分、以下略)    


 「日本海詩人」第五巻号十一月号に掲載されたときは行分け詩である。『全詩集』には、このめずらしい行分詩を散文詩のスタイルに変えて収められている。(一字一句異なってはいない。)
 この「日本海詩人」で結束した詩人たちも、大村は四十九年、埴野は五十七年、宮崎は六十三年に病没、それぞれの生涯を閉じることになる。
 ここでさきほどの井上靖の「青春」の後半を読むことにする。冒頭に引用した部分とつながった一連の散文詩である。      

この一枚の青春の絵を、それから今日まで四十年の間に、
私は何回思いだしたことであろう。思い出す度に、絵は
遠く小さくなって行く。そしてこの頃ではもう、雪に降
りこめられた石動の町は、蜆貝を並べたようなものとし
て眼に浮かび、駅の建物もまた、その蜆貝の一つになっ
ている。蜆貝の中に居る二十歳の私! 暗く、哀しく、
純粋である何かが、雪を跳ねのけ、雪にまぶれながら近
付いて来る明るい花畑を、賑やかな市場を、シャンデリ
アの眩しい謁見の部屋を待っている。刻一刻、それらが
近づいて来るのを待っている。   (「青春」後半部分)


 この詩はここで終わっている。
「蜆貝の中にいる二十歳の私!」が、「雪を跳ね除け、雪にまぶれながら近づいてくる」明るい未来への予感。それを希求して終わる詩には、蜆貝という石動の町全体の侘びしい比喩と自らの内面とを重ね合わせて「一枚の青春の絵」に遠い春をまちわびる心情がつたわってくるだろう。このことはむろん事実かどうかはわからないが、石動を訪ねたことは事実でも、鬱屈した青春の淋しさ、哀しさといった感情を、たとえそれがフイクションであれ、それもふくめて詩的事実として受け止めたい。(未)


  # by tanaisa | 2016-11-21 09:04 | (詩をめぐる批評関係)

井上靖の詩的出発を巡るメモ(一) 

井上靖の詩的出発を巡るメモ(一) _f0376775_08312238.jpg      (1)
 北陸のこの地にみぞれが降りだす十一月の頃になると、きまって井上靖がはじめて書いたという詩のことが思い出される。井上が高校二年のとき(金澤の旧制第四高等学校時代)のこと。室生犀星の詩集『鶴』を読んで、すごく感動し、自分も詩を書こうとおもいた
って書いた詩を当時新聞の紹介でみた『日本海詩人』という詩誌のもとをたずねる。昭和四年(一九二九)のことであった。井上文学の出発はこの一編の詩からはじまったのだ。(本人も著書の中で述懐している。)
 『日本海詩人』とは、石動町(現、小矢部市)に住む大村正次(明治二十九年~昭和四十九年)が主宰する雑誌であった。発行期間は短かったが大変に、充実した詩誌であった。大村は石動町に住んでいて、中学教師のかたわら詩誌「日本海詩人」を主宰し、地方
の詩運動の推進者として活躍していた。そのときの井上の作品「冬の来る日に」は井上泰のペンネームで翌年四月に「日本海詩人」に掲載された。この日の出来事が、のちの第四詩集に「青春」と題しておさめられている。
その詩はつぎのようにはじまっている。


詩を書いた一枚の原稿用紙を懐にして、私は田舎の中
学の教師をしている詩人のもとを訊ねて行った。夕食
のご馳走になり、その家を辞すと、戸口は吹雪いていた.
両側の人家が固く表戸をおろしている通りを、私はマン
トを頭からかぶって駅へと急いだ。待合室にはいると、
そこに居た角巻の女と二人で、ストーブに寄って、終列
車を待った。石動という駅であった。

この詩については、後半部分も含めて後ほどふれることにして、まずは大村について記しておきたい。大村はこの詩誌の発行をつうじて、埴野吉郎、方等みゆき、久湊信一、宮崎健三らを育てたと同時に井上靖の詩的出発をも促したことになる。(埴野、宮崎両氏は、私の若いころにおつきあいいただいた詩人として、忘れられない方々である。)さらには大村正次の詩活動についてしらべると、大正四年、師範在学中に室生犀星が主宰した「卓上噴水」に鳳太郎の筆名で詩を発表。その後は「サラマンダ」や「沙羅樹」の同人詩に拠り、やがて「日本海詩人」に加わり、昭和三年の秋に上梓した詩集『春を呼ぶ朝』で反響
を呼んだが、数年後には挫折し、惜しくも詩筆を断っている。

ここで、井上靖の作品「青春」の後半部分にふれるまえに、もうすこし先に述べた埴野吉郎と宮崎健三についての紹介を、稗田菫平氏の刮目すべ著書『とやま文学の森』を参考に書き写しておきたい。
埴野吉郎(明治四十一年~昭和五十七年)は、七年に『緑の尖兵』を上梓。稗田氏はこの詩集は圧縮された表現の中に、高潔できびしい生命感を盛り込んで、昭和初頭における県詩壇の最も注目すべき詩集」であると述べている。

 その埴野は「日本海詩人」が廃刊した後は一時期、県外誌「ポエチカ」に加わるが十二年に「宴」を創刊。壬生恵介、関沢源治、瀬尾正潤、西村松次郎らと叙情詩運動を推し進める。さらに、戦後二一年にはいち早くこれを復刊。稗田菫平、小山内文。山崎浪子らと文学活動を再開して小説にも筆をそめたりしたが、二十年代後半から前衛詩に移行して「VOU]に加わり、晩年には『閑雅なカード』『青の装置』の二冊の詩集を上梓した。私はいつ頃だったか記憶は定かではないが、埴野さんから「VOU」を、発行のたびに欠かさず送っていただいたことを憶えている。遠く懐かしい思い出がある。また、宮崎健三(明治四十一年~昭和六十二年)は、「日本海詩人」で知り合った井上靖、久湊信一らと詩誌「北冠」を発行したが、進学のため上京して詩活動は中断。その後、長らく詩にたずさわっていなかったが、昭和四十年代から再び詩活動を再開し、『北祷』を皮切りに、『望郷』にいたるまでやつぎばやに六冊の詩集のほか、詩論集『現代の証言』(昭和五十七年)で、井上靖論を執筆した。
(宮崎先生からは、その内にお会いしたいという手紙を頂きながら、ついにお目にかかることができなかった。)(未)


  # by tanaisa | 2016-11-20 08:36 | (詩をめぐる批評関係)

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