井上靖詩論のためのメモ5
(6) そこで伊藤は「詩もまた、その叙事的な要素をとっくに小説に譲り渡してしまったし、
その抒情性の多くを歌謡に譲り渡した。いま詩は何をもっているのか?感覚と思想とをリズムの中にとらえることのみを、その領域としている。」つまり普遍的、本質的なものを譲り渡してしまった詩に未来はあるかといった、痛烈な問いであったと思う。
当時の詩のわからなさについての評論はいろいろあったようだが、結果的にいってし
まえば、戦後は詩を書くうえでの態度が大きく変わったからであると、大岡信は、いう。
その態度というのは、「もう誰も言葉だけではろくすっぽ信じもしない世のなか」(黒田三郎)になってしまったという事実をなによりも物書き自身が痛切に自覚するようになったということで、「分からない詩」の存在が大きくなっていったという。それは当然のように戦後という時代の要請でもあったわけだが、その後「全体性の回復」が戦後詩の合い言葉のように求められたという時代的背景を見落すわけにはいかないだろう。
井上靖の『北國』のあとがきには、そのことを充分感じていたと思う。「現在、沢山の同人雑誌が出版され、多勢の若い詩人たちが詩を書いている。こうした詩に対して、一般に語られるのを聞くと、必ず判らないということが決まり文句のように云われる。実際に判らないだろうと思うし、判らなくて当然だと思う。」「既に何冊かの高名な詩集を持っている詩人の仕事にしても、いい作品というものは極めて少ないのではないか。一生のうちに何編かの立派な詩が書けたら、その人は立派な詩人であるに違いない。」と述べている。今、こんなことを言うと、やや俗っぽく聞こえてしまうのだけれど…。すべての人に理解されない詩というものの特殊な本質にふれながら、さらに苦い断念をふまえて作品化していることを述べた当時の率直な思いの箇所にたちどまった。
その後の主要作品名や受賞など掲げると、「添胡樽」(昭和二十五年)・「淀どの日記」(昭和三十年)・『天平の甍』(昭和三十三年)により芸術選奨文部大臣賞。『氷壁』(昭和三十四年)その他により毎日芸術大賞。『淀どの日記』により野間文学賞。又、昭和三十九年(一九六四)五十七才で日本芸術委員会員となり『風濤』により読売文学賞。『おりしや国酔夢譚』(昭和四十四により日本文学大賞。
昭和五十一年(一九七六)十一月、井上靖は、文化勲章を受賞する。六十九才であった。その後、同五十六年には日本ペンクラブ会長、日本近代文学閑名誉会長に就任する。
また、平成元年(一九八九)には『孔子』により再び野間文芸賞を受賞する。本当はこの裏側に、どんな詩的人生が潜んでいるのだろうと思いながら雑誌からの年表などを書き写していた。(立派な作家としての履歴、万一間違って書き写していたら、お詫びいたします)(未)
# by tanaisa | 2016-11-24 09:54 | (詩をめぐる批評関係)