中原中也ノート4

f0376775_08301109.jpg 中也が三歳の記憶を二十代の終わりに書いているが、子供の頃は親の期待に応えようと、何でもよくやった優等生でそして早熟だったようだ。前回につづき子供の頃の中也について小学生の頃から中学生の頃について、みていくことにする。一九二〇(大正九)年、小学六年の時には雑誌や新聞に短歌を投稿。{婦人画報二月号)に次の歌を自薦として掲載。「筆捕りて手習いさせし我母は今は我より拙しと云ふ」。地元の「坊長新聞」二月十七日に短歌三首が掲載。しかし両親は中学入試の勉強に集中させる。 中也は「大正四年のはじめの頃だったか おわりころであったか兎も角寒い朝、その年の正月に亡くなった弟を唄ったのが抑抑(そもそも)の最初である。学校の読本の、正行が御暇乞の所 「今一度天顔を拝し奉りて」といふのがヒントをなした。」と〈詩的履歴書〉に書いている。

 一九二〇年四月、県立山口中学校(現・山口県立山口高等学校)に入学にする。成績の方がどんどんとおちていったようだが、読書熱は増す。そして新聞への短歌の投稿をし、歌壇欄に頻繁に掲載されるようになる。短歌会にも顔をだし、益々文学に熱を上げる。「防長新聞」の歌壇欄で瞠目されたのは、(大正十年十月二日)の掲載された「煙」と題する次の二首であろう。

ゆらゆらと曇れる空を指さして行く淡き煙よどこまでゆくか
白き空へ黒き煙のぼりゆけば秋のその日もなほ淋しかり



 この二首については福島泰樹が感覚的な視点に触れた解説を寄せている。
「まず視覚的にみてふらつきがない。均整がとれているのである。活字の行間から、モノクロームな風景が煙のようにユラユラと立ち上ってゆくではないか。聴覚的にはさらなる完成度が見られる。十四歳の少年は曇天の空の向こうに、詩の予兆を、ひとりはためく黒旗を見たのか。」。 (『中原中也 帝都慕情』)にさらにつづけて「一首目の、「ラ」行音と{カ」行音からなる連弾の妙!」と別冊『太陽』誌の{曇天の朝」で述べている。ここではまだはっきりと認めにくい「連打の妙」は、のちに発表された「曇天}(昭和十一年七月)に連なっていくとみていいのだろう。
さらに{防長新聞」短歌欄に掲載された歌をここに記していきたい。この頃はまだ定型とは出合っていなかった。三年後の定型詩と出合う前の短歌を拾い集めてみる。(およそ一九二十年から二十三年にかけての歌) 

  子供心
菓子くれと母のたもとにせがみつくその子供心にもなりてみたけれ
 
   小芸術家 
芸術を遊びごとだと思つているその心こそあはれなりけれ
 
   春の日
心にもあらざることを人にいひ偽りて笑ふ友を哀れむ日
    去年今頃の歌
一段と高きとこより凡人の愛みて嗤ふ我が悪魔心

 
いずれの歌も中学生が自己の内面を見つめようと、真剣できまじめな姿がよみとれるであろう。
晩年の詩《曇天》が発表されたのは昭和十一年七月。先にそれを書き写したい。

  ある朝 僕は 空の 中に、
黒い 旗が はためくを 見た。
はたはた それは はためいて ゐたが、
音は きこえぬ 高来が ゆゑに。


手繰り 下ろうと ぼくは したが、
綱も なければ それも 叶はず、
  端は はたはた はためく ばかり、
空の 奥処に 舞ひ入る 如く。
 
  かゝる 朝を 少年の 日も、
屡屡 見たりと ぼくは 憶ふ。
かの時は そを 野原の 上に。
今はた 都会の 甍の 上に。


 かの時 この時 時は時は 隔
此処と 彼処と 処は 異れ、
はたはた はたはた み空に ひとり、

いまも 渝らぬ かの 黒髪よ。


この黒い旗のはためきと言う中也の詩の感性は、今読み返しても私に不安感をよびおこす。この不吉な予感は、この詩が発表された昭和十一年七月に、二・二六事件に連座した将校および民間人十五人が処刑されている。(未)



  # by tanaisa | 2016-12-22 08:31

山村暮鳥の初期詩編をめぐって6

指をつたうてびおろんにながれよる
昼の憂愁、
然り、かくて縺れる昼の憂愁

一の処女をsといい
二の処女をfといい
三の処女をyといい
然してこれらの散りゆく花が廃園の噴水めぐり、
うつむき、
匂いみだれてかがやく。


びおろんの絃よ!
悲しむ如く、泣く如く
哀訴の、されどこころ好き唄をよろこぶ銀線よ!

昼の憂愁 ……       ({三人の処女」全行)

 この詩集には、島崎藤村が序文で「新しい香気と、淡い柔かな呼吸とに満ちた詩集だ。」と書き、さらに昔馴染みに逢うたような気がすると 述べている。この詩集の中には全編ひらがなの詩がある。比較的に優しいのだが解釈するには難解なところもある。意味をこえたところに詩の本質があることをこの時代の人々は理解していたかどうか、さだかではない。
  
やまのうえにふるきぬまあり、/ぬまはいのれるひとのすがた、/そのみづのしづかなる/そのみづにうつれるそらの/くもは、かなしや、/みづとりのそよふくかぜにおどろき 、/ほと、しづみぬるみづのそこ、/そらのくもこそゆらめける。/あはれ、いりひのかがやかに/みづとりは/かく、うきつしづみつ、/こころのごときぬまなれば/さみしきはなもにほふなれ、//やまのうへにふるきぬまあり/そのみずのまぼろし、/ただ、ひとつなるみづとり.。 (「沼」全行)

山の上の古い沼を形象化し「いのれるひとのすがた」と比喩する。そのどっしとして一心に祈る姿はイメージ出来る。そこにうち捨てられてあるかのような沼の存在に自らを美しき湖に重ね合わせながら、心象風景としてまぼろしをえがく、その湖に漂う水鳥によって沼と湖がひとつになるというあこがれにちかい願望もこめている、自然の礼賛ともよめるだろう。といった読みまでも排除して、意味性の排除による言葉のリズムにみみをすましながらもうひとつのイメージをよびさます。沼の深い心象に至ろうとする。この詩集の次に「聖三稜玻璃」を出版するのだが。その次の「風は草木にささやいた」との間で、「聖三稜玻璃」の圧倒的な作品群が生まれたことの不思議さを強く感じる。口語自由詩の先駆的なモダニティがこの詩集から始まったといってもいいだろう。朔太郎は「人間の霊魂の叫びである」と一度は絶賛したものの、のちにはこの詩集を取り巻く変化に戸惑いながら、半ば否定している。 f0376775_09341512.jpg


  # by tanaisa | 2016-12-13 11:49 | (詩をめぐる批評関係)

山村暮鳥の初期詩編をめぐって5

口語自由詩の芽は山田美妙のによって提唱され発表された。次のような詩が「伊良都女」に発表。   


こどもよまなべ
おもちゃをしまへ
あそびたいなら
まずよくまなべ


こどもよあそべ
わすれようさを
なまけずあそべ
きままにあそべ


こどもよねむれ
ねむりてやすめ
からすもねぐら
金魚も しずむ

たあいないものであったが、鉄幹、湖処子、夜雨、林外、泡明、夕暮らの詩人によって、それそれの雑誌に口語自由詩が全盛をきわめていく。明治四十二年に自由詩社から「自然と印象」が創刊。人見東明の「酒場と夢見る女」が発表され、その第九号には暮鳥の作品が掲載されている。福田夕咲「春の午後」、今井博楊「Deaty only日の歿しゆく時」にならんで、暮鳥の「航海の前夜」の総タイトルのもと四編の詩が掲載されている。そのうちの二編を次に掲げる。

鉛の如(やう)に重く、ゆく方無き夕べの底。
織りは大(おほひ)なる 悲哀に飛廻り、さ迷ふ。
三階の窓より
sよ
おまえの胸にもたれて滅びゆく日のかがやきを
見た。
五月、
その五月の青い夕べ

しずかに静かに
黄昏れゆく。            (「病めるsに」部分)
 
秋風よ、わが師のためにその弾奏の手を止め。
聴くに堪へざる汝の悲しい恋歌
見よ、野の鳥の歓楽を泪ぐませ
ほろほろと夢より憂愁の落葉をすべる
さては悲しいわが秋風よ。
ああ、やせ衰ふけれども心あるものに
弾奏の顓音よ
おそろしき不滅を注射するであろう。   f0376775_11174116.jpg (「秋風の悲しき弾奏」全行)
「青い夕べ」や「不滅の注射」の比喩に非凡さを感じることが出来るが、詩としてはまだ未完成の域を出ていない。ここで暮鳥二十歳のころの第一詩集「三人の処女」のいわゆる代表作を掲げておこう。つぎに出版され詩界を賛否の渦に巻いた「聖三陵玻璃」の中の詩編と比べるまでもないだろうか。(未)

  # by tanaisa | 2016-12-12 10:01 | (詩をめぐる批評関係)

山村暮鳥の初期詩編をめぐって4

 山村暮鳥が群馬での生活を離れて東京築地聖三一神学校に入学したのは明治三十六年。入学の経緯については曖昧ながら、親しかったウオールの世話であったようだ。本人の「半面自伝」によれば「(進学校に入るまで)に自殺を図ること前後三回。学校では乾燥無味なギリシャ、ヘブライの古語学より寧ろ文学の方面により多くの生けるものを感じ、その研究に傾いた。」と 述べている。
 暮鳥は明治三十七年に岩野泡明、前田林外、相馬御風が創刊した短歌雑誌「白百合」に短歌を発表。これが文学活動の第一歩をしるすことになる。当時は木暮流星の筆名で掲載していた。その作品を右に記してみる。

さらば君白衣さきてわれゆかん野にはいなごの餓のあるまじ
名は知らず柩かく人髪白く泣く子にしむき竹の杖とる
うけたまへわが霊神よかへしまつる落穂に足らふ鳥もある世ぞ
秋が乗る天馬にやらめしろかねの倉にふさはん黄金向日葵
母おいて小狗よぶ子のあとさきに絵日傘二つ何おもひ行く
うらぶれて行く子いだきて彩霞(あやがすみ)いずか消えん果てをおしへよ
あゝ恋いよ汝がうちすてし詩の子はいま太刀とりて馬駆り行く



 (短歌としては特に見るべき作品もないまま、のちに詩へと転向することになる。)やがて日露戦争が開戦し、戦時補充兵として召集され満州に渡った。明治三十八年から九年まで満州にいて、帰国後は再び進学校の学生となる。やがて牧師となりまた作家となっていく素地をここで養ったとされていて、詩人としての活動を展開していくことになる。和田義昭氏の文章によれば明治四十年の頃、短歌から詩へと転向していく。「書生はもう三十一文字やめ申し候、この頃は長詩(新体詩)のみ作りをり候、なかなかさかんなものに候、」と詩作への抱負を述べたことを記している。なぜ短歌をやめて詩作に変わったのか、その理由は書かれていない。短歌では自分の思いを実直に述べることが出来なかったのだろうか。
その年の暮れには『文章世界』に次のような作品が掲載されている。まさに初期の詩作品である。


葛蔦の一褸
石の壁の
上をひきぬたそがれ。


あたゝかき光
追ふなる陰の相
たちまち冷えて
吸はれ行く
影よとまれ
我が心
あなや崩るる。
花もなく葉も
落ちはてゝ
冬近きこぼれ日拾う
恋いなればー恋は
いだけど脈絶えて
血の燃えぬ壁 (「壁」全行)
(未)
f0376775_09341512.jpg


  # by tanaisa | 2016-12-11 09:56 | (詩をめぐる批評関係)

山村暮鳥初期詩編をめぐって3

 暮鳥の詩論である「言葉に非ず、形象である。それが真の詩である。」を引用しながら朔太郎はそこに疑問を呈している。「私はこの説似たいしては七分通り賛成f0376775_11174116.jpg三分透り反対である。」と暮鳥の詩論が進みすぎているということに賛意を保留したとみた方がいいようである。「最もよく詩の特質を発揮した詩編」として「だんす」を揚げて、その詩について読みを試みている。


あらし
あらし
しだれやなぎに光あれ
あかんぼの
へその芽
水銀歇私的利亜
はるきたり
あしうらぞ
あらしをまろめ
愛のさもわるに
烏龍茶っをかなしましむるか
あらしは
天に蹴上げられ (「だんす」全行)


なんとなく優雅な姿態を駆使した若い女性の軽快な舞踏の場面を想像させるが、この作品については朔太郎の懇切丁寧な解説にあたっていただく方がいかもしれない。
 よく知られている詩としては、「風景 純銀もざいく」があるいわゆる「いちめんのなのはな」この詩の表現については、伊藤信吉がつぎのように表している。
 「作者はここであきらかに印刷効果を計算にいれており、活字印刷のない時代には絶体に考えることのできない試み」「視覚性を端的に利用」した、として次のように評している。

   
この「純銀もざいく」というサブタイトルは、この詩の表現方法の説明といってよくそれはモザイクのように手工芸的に一つ一つの言葉をはめこみ、「人工的」に詩を組み立てるということ。こま   でくると詩は歌われるものではなく、意識的、方法論的に構成されるものになった。したがって 「風景」のような作品は、その試みの新規さや衣装のあたらしさに意味がある。「目で見る詩」の発見である。

 
上のことばは特に斬新で新鮮な評言いうわけでないが、一つの見識として掲げた。最後に個人的にある啓示のようなもの感じ取った作品を掲げたい。

  
岬の光り
岬のしたにむらがる魚ら
岬にみち尽き
そら澄み
岬に立てる一本の指 (「岬」全)

岬の空がすんでいる風景はなっときできる、なぜ空が澄んでいるかといえばそこに一本の指が天をさし起立している、この指は灯台の比喩とみられるが、岬の灯台の孤独な存在が天に向かって強い意志を示している。詩は死者への伝言のように。山村暮鳥の言葉への純粋な精神が光っている。(未)


  # by tanaisa | 2016-12-10 11:18 | (詩をめぐる批評関係)

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